聴くこと

  ある勉強会に参加した時、相手の言うことをよく聴いて応答する研究者と、自分の言いたいことを一方的に言うだけの研究者の両方がおりました。教育に携わる者として、いろいろと考えるところがありました。



  わたしはメディア・リテラシー教育を研究しており、同時にアカデミック・コーチングも実践研究をしています。本稿では、メディア・リテラシー教育(特にMasterman)について述べたいと思います(アカデミック・コーチングについては、次の投稿で)。



メディア・リテラシー教育の理論化を行った、Mastermanと言うイギリスの教育研究者は、「メディア・リテラシーの18の基本原則」を以下の様にまとめています。

  1. メディア・リテラシーは重要で意義のある取り組みである。その中心的課題は多くの人が力をつけ(empowerment)、社会の民主主義的構造を強化することである。
  2. メディア・リテラシーの基本概念は、「構成され、コード化された表現」(representation)ということである。メディアは媒介する。メディアは現実を反映しているのではなく、再構成し、提示している。メディアはシンボルや記号のシステムである。この原則を理解せずにメディア・リテラシーの取り組みを始めることはできない。この理解からすべてが始まる。
  3. メディア・リテラシーは生涯を通した学習過程である。ゆえに、学ぶ者が強い動機を獲得することがその主要な目的である。
  4. メディア・リテラシーは単にクリティカルな知力を養うだけでなく、クリティカルな主体性を養うことを目的とする。
  5. メディア・リテラシーは探究的である。特定の文化的価値を押し付けない。
  6. メディア・リテラシーは今日的なトピックスを扱う。学ぶ者の生活状況に光を当てる。そうしながら「ここ」「今」を、歴史およびイデオロギーのより広範な問題の文脈でとらえる。
  7. メディア・リテラシーの基本概念(キーコンセプト)は、分析のためのツールであって、学習内容そのものを示しているのではない。
  8. メディア・リテラシーにおける学習内容は目的のための手段である。その目的は別の内容を開発することではなく、発展可能な分析ツールを開発することにある。
  9. メディア・リテラシーの効果は次の2つの基準で評価できる。
    1) 学ぶ者が新しい事態に対して、クリティカルな思考をどの程度適用できるか
    2) 学ぶ者が示す参与と動機の深さ
  10. 理想的には、メディア・リテラシーの評価は学ぶ者の形成的、総括的な自己評価である。
  11. メディア・リテラシーは内省および対話のための対象を提供することによって、教える者と教えられる者の関係を変える試みである。
  12. メディア・リテラシーはその探究を討論によるのではなく、対話によって遂行する。
  13. メディア・リテラシーの取り組みは、基本的に能動的で参加型である。参加することで、より開かれた民主主義的な教育の開発を促す。学ぶ者は自分の学習に責任を持ち、制御し、シラバスの作成に参加し、自らの学習に長期的視野を持つようになる。端的にいえば、メディア・リテラシーは新しいカリキュラムの導入であるとともに、新しい学び方の導入でもある。
  14. メディア・リテラシーは互いに学びあうことを基本とする。グループを中心とする。個人は競争によって学ぶのではなく、グループ全体の洞察力とリソースによって学ぶことができる。
  15. メディア・リテラシーは実践的批判と批判的実践からなる。文化的再生産(reproduction)よりは、文化的批判を重視する。
  16. メディア・リテラシーは包括的な過程である。理想的には学ぶ者、両親、メディアの専門家、教える者たちの新たな関係を築くものである。
  17. メディア・リテラシーは絶えざる変化に深く結びついている。常に変わりつつある現実とともに進化しなければならない。
  18. メディア・リテラシーを支えるのは、弁別的認識論(distinctive epistemology)である。既存の知識が単に教える者により伝えられたり、学ぶ者により「発見」されたりするのではない。それは始まりであり、目的ではない。メディア・リテラシーでは、既存の知識はクリティカルな探究と対話の対象であり、この探究と対話から学ぶ者や教える者によって新しい知識が能動的に創り出されるのである。

(Masterman 1995)



  Mastermanによると、メディア・リテラシー教育の主目的は、教師が与えた概念や情報などを、従順に再生産する能力を生徒たちに獲得させることではなく、生徒が将来出会うであろうメディア・テクストに対して、生徒自身がクリティカルな判断ができる自信と自律性を身につけさせることと指摘します。そのためには、教育の方法それ自体を考える必要があります。彼は「熟慮とクリティカルな思考を促し、できるだけ活発で、民主的で、グループを中心とした、行動志向の授業をつくるといった非階層的な教育方式と方法論が要求される」と言うのです。



  また、メディア・リテラシー教育の目的が自律性だとするならば、学生を教師に依存させるような教育学は全く逆効果となります。ですから、「学生がグループによる議論を通して自信を育み、できるだけ早く自ら判断を下せるようになり、判断を分析する能力を開発し、自分の学習や思考に責任を持つようになるアプローチを展開しなければならない」のです。Mastermanは、「当事者全員に対して、すでに自分が知っていると思っていることを問題とするように促し、その根底にある前提に対して疑問を持つ能力を養うこと」が教師の仕事であるとし、授業においては「教師自身の認識や解釈自体も、他の全ての人のそれと同等に検討され、吟味されうる」と主張します。彼は、メディア・リテラシー教育において、学生がグループで議論することを通して学ぶ教育方法を重要視し、教師の権威主義的側面を批判しながら、その活動は教師と学生の関係をも変える試みであることをも合わせて指摘しています。



  これらのメディア・リテラシー教育について、Mastermanは「対話―省察―行動」というFreire(1970a)が用いたアプローチを採用しています。Freireはブラジルの教育者なのですが、銀行型教育(簡単に言うと一方的な知識注入型の教育)における非人間化の作用を批判し、問題解決型教育による学習者の解放を説いています。問題解決型教育は、教師と学習者の「対話」と学習者の「意識化」を必要とし、対話そのものの本質である「言葉」には「省察」と「行動」の2つの次元があるとしています。



  「対話」とは、Freireによれば「世界を命名するための、世界によって媒介される人間と人間の出合い」であり、「対話者同士の省察と行動がそこでひとつに結びついて、変革し人間化すべき世界へと向かう」ことを示します。教師と生徒といった教育関係論上の対話では、この「命名」、「出合い」、「変革」の3つの「対話」こそが、学習者の「自己解放」を導くとしているのです(佐藤 2016)。この自己解放へと導くための実践として、Freireは「生成語」や「生成テーマ」、「生成的問い」といった「生成」概念に着目しています。



  Freireが実践した課題提起教育では、3つの段階が指摘されています(Gadotti 1989, Shor 1993)。1.調査の段階、2.テーマ化の段階、3.課題提起の段階、です。まず「調査の段階」では、教育者が生徒の経験の中心となっていることばや考え、習慣を調査します。次に「テーマ化の段階」では、生徒との対話によって集められたことばから中心的な課題をテーマとして抽出し、生成語/生成テーマを明らかにします。最後に「課題提起の段階」では、教師と生徒の対話による意識化の実践を行います。なお、意識化とは、「認識主体としての人間が、みずからの生活のあり方を定めている社会文化的現実と、その現実を変革するみずからの能力とを深く自覚する過程」のことです(Freire 1970b)。抑圧の状況に埋没している生徒は、埋没しているが故に自らその状況を意識化することが出来ません。しかし、教育者の働きかけによって、自らの状況性を省察することを通して客観的課題状況として把握することができ、そのときに初めて人間は埋没状態から脱却する、とFreireは指摘します。意識化は、「脱却の際に必ずみられる自覚的姿勢の深化」なのです。この意識化を導くのが「対話」であり、対話の本質である「省察」と「行動」を導くと指摘しているのです。



  また、Wallersteinら(2004)も課題提起教育には3つのフェーズがあると説明します。1. 生成テーマや彼らの課題を調査する段階における「傾聴」、2. 批判的思考を促すディスカッションにおける「対話」、3. 生徒の省察に伴う変革について方法を練る「行動」、です。特に、「傾聴」は課題的教育を実践する教育者にとって、生徒のニーズや抱えている課題、懸念事項、希望と言った「生成テーマ」を明らかにすることができる、と強調します。生成的テーマは生徒の日常生活から生まれる課題であり、これらを明らかにすることで、その課題は徐々に教師と生徒が共有する進行中のプロセスとなるのです。



  さらに、Noddings(2013)も聴くことの重要性を強調します。彼は、ある状況下で自身が感じるであろうことを想像することによっては、他者を「経験」したことにはなりません。そもそも、その「状況」や「出来事」それ自体も関係的に記述されるものですから、教師や生徒は異なる人間である以上、2つの異なる「状況」が記述されるわけです。そのために、彼は相手が経験していることや感じていることを「聴く」ことが必要である、と主張します。教育現場では、「想定されたニーズ」に主眼が置かれ、生徒たちは与えられたカリキュラムをこなすことが人生で成功する唯一の道であると信じているように思われますが、他者が外側から観察したり想像したりして引き出される「想定されたニーズ」ではなく、「対話」の中で生徒から「表明されたニーズ」を教師が「聴く」ことは、実はとっても大切な視点なのです。それは、人間関係や信頼の構築を目指した「対話」における最初の活動となります(しかし、彼は、現在の学校は「想定されたニーズ」を満たすために組織されていると指摘します)。



  誤解のないように付言しますと、「ニーズ」というのは、例えば「授業でゲームをしたい」「金儲けの技術を身に付けたい」というような生徒のニーズではありません。そのような話をしているのではありません。消費者の視点から語られる「ニーズ」とは全く別のものです。そもそも、教育現場において生徒は消費者ではありませんから(同時に、教育は消費者に提供されるサービスではありません。教育産業は別ですが)。



  話をMastermanに戻しますと、彼は、「世界を、受け入れる者として、『与えられた』ものとしてではなく、クリティカルに働きかけるものとして、人間の作用によって形づくられ変えられるものとしてみること」を教育の習慣を開放するための必要条件であるとし、「学習者の置かれている具体的現実と、その現実での学習者自身の経験を評価の基準として受け入れること」と「学習者を受動的で疎外された他者の『知識』の受け手に変えてしまうような、物語的で階層的な伝達の様式を止めること」が必要であると主張します。そのためには、教師として「自分自身の中で、また他者との接し方において、抑圧的で非人間的な要素をなくしていく努力」を要し、「対話」によって教師と生徒、生徒同士、生徒・教師と知識そのものの関係といった教育における伝統的・構造的関係を問い直すことを重要視するのです。 



   このような理論を背景にメディア・リテラシー教育を行いますから、教師が一方的に話して終わり、という授業を展開する余地が無いのです。この教育に関わる先生方は、生徒を「聴く」ことの重要性を全員が認識し実践していると思います。

  冒頭に書いた「自分の言いたいことを一方的に言うだけの研究者」を前にしたとき、この方は(あの場においては)聴くことを重要視していないんだな…と、その場にいた人の誰もが感じたことでしょう。教員養成系の大学で教えている身としては、次世代の教育者や研究者を育てるのは、小中高、そして大学の教員だと認識しています。目の前にいる者を自分より知識や経験が無い劣った存在として接するのではなく、相手を「聴くこと」、そして議論を重ねることが(次世代を育てるためにも)重要と感じるのはわたしだけではないでしょう。



参考文献

  • Freire, P. (1970a) Pedagogy of the oppressed. Trans. Myra Bergman Romans. Herder & Herder.(小沢有作 他訳(1979)被抑圧者の教育学.亜紀書房.)
  • Freire, P. (1970b) Cultural Action for Freedom.(柿沼秀雄・大沢敏郎 訳(1984)自由のための文化行動.亜紀書房.)
  • Gadotti, M. (1989) Convite à leitura de Paulo Freire. Editora Scipione.(里見実・野元弘幸 訳(1993)『パウロ・Freireを読む―抑圧からの解放と人間の再生を求める民衆教育の思想と実践』.亜紀書房.)
  • Masterman, L. (1995) Media Education: Eighteen Basic Principles. MEDIACY, Vol.17, No.3, Association for Media Literacy.
  • Noddings, N. (2013) Freire, Buber, and Care Ethics on Dialogue in Teaching. In Lake, R. & Kress, T. (Eds.) Paulo Freire’s Intellectual Roots – Toward Historicity in Praxis. Bloomsbury.
  • 佐藤雄一郎(2016)P.Freireの「解放」の教育思想と「問題的教育」の今日的意義―「対話」と「意識化」を媒介する「生成語」/「生成テーマ」に着目して―.日本教育方法学学会紀要『教育学方法学研究』,第41巻,pp.49-59.
  • Shor, I. (1993) Education Is Politics: Paulo Freire’s Critical Pedagogy. In McLaren, P. & Leonard, P. (Eds.) Paulo Freire A critical encounter. Routledge.
  • Wallerstein, N. (1987) Problem-Posing Education: Freire’s Method for Tranformation. In Shor, I. (Ed.) Freire for the Classroom; A Sourcebook for Liberatory Teaching. Boynton Cook Publishers.

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